矢指川源流をまたぐ橋の上から幸運にもカワセミを見れた人も残念ながら見れなかった大部分の人も道を少し戻ってください。 「八つ塚道を経てマリアンナ口へ」という道標があるのでそこで山道に入りましょう。
 とりつきは雨が降ったら沢になるような道だが100mも進めばなだらかな尾根道にでる。 そこまでの上り道を自転車で一気にこぎあがるにはかなり気合いをいれなばならない。 ゆっくり歩いて上るときは道の右側がユーカリの畑になっているので葉っぱのにおいをかいでみるのもいいだろう。 ユーカリには沈静作用や消炎作用などのアロマテラピー効果があるそうです。 そういえばユーカリ畑は追分広場の近くにもあるし、中原街道に面した畑にも植えられていたが何の目的で栽培されているのだろうか。

さて、尾根道は先ほどの道標からマリアンナ口まで820mあるがほとんどが杉林の中を行く気持のよいみちである。E八つ塚道ところでこの「八つ塚道」とはどうしてついた名前だろうか? いかにもいわく有りげな名前ではないか。 鶴ヶ峰の薬王寺には六つ塚というものがあるが、この付近にはいくら捜しても塚などない。 図書館で郷土史の書物を調べてみたが、結局、名前の由来は分からなかった。 しかしこのあたりの歴史に関し思わぬ収穫があった。 今回はそのいくつかを紹介しよう。「新編武蔵風土記稿」

こういう書物がある。 原著は江戸幕府により文化七年(1810)〜文政十一年(1828)に編纂されたものであるが、その八一巻に図に示した地図とともにこの地域に関するいろいろな記載がある。
二俣川は武蔵の国、
瀬谷は相模の国

地図は年号が正保となっているが、この時代には、私たちの郷土は武蔵の国、都筑郡に属していた。 そして西隣は相模の国である。 
そこで分かったことがある。 八つ塚道の西側の舗装道路を野境道路とよぶが、これは武蔵の国と相模の国の境を意味していたのである。

追分市民の森の追分とはなにか?
 道が分かれるところを追分というが、いったいどの道とどの道を指すのだろうか。 この地域の古い街道は中山街道、八王寺街道、古鎌倉街道くらいであるが、位置から推定しおそらく中山街道と鎌倉道が該当するように私は思う。(間違っていたらゴメン!)
二俣川は「東鑑」(あづまかがみ)にのっている

二俣川に関しては次のような記載がある。
○二俣川村 二俣川村は郡の南にあり。 この地名は「東鑑」などにものせて、ふるくよりもきこえたり。土人の傳へに、隣村長津田・川井の二村より湧出するニ條の小川あり。その川、村の東方にて合し一條となる所、又をなすによりとなへはじめしなりと・・・中略・・・江戸日本橋より行程十里にあまれり。家数百五十二軒。村の四隣は東の方・川島・市野沢の二村につづき、南は今井村およひ相州鎌倉郡奈瀬・岡津の二村に接し、西も同国阿久和村と當郡上川井村とにて、北は今宿村なり。東西三十丁余、南北二十五丁ほど。郡中の大村にして且山谷の間なれば、そのさま他村には似ず、村民の住する所すべて四区にわかれて村落をなす。 榛谷・膳部谷・本宿・二又川等の地名あり。


新編武蔵風土記稿に掲載されている正保(しょうほう)年中改定図の一部
正保は家光の時代(1644-1647)


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