おわりに

2004年に認知症が見つかって以来、2007年のデイサービス利用、2015年特養入所を経て、
14年間にわたり認知症の妻と歩んできました。

初めは「なんでこんな目に合わなければならないのか?」と嘆いたり、
なんとかして克服しようと病気について学び、良いと思われる薬や生活習慣を試してきました。
しかし途中からは、治らない病と認め、受け入れ、できるかぎりの楽しい想い出ができるよう努めてきました。

そして後半からは、大自然の摂理にしたがい、過去や未来を思い煩うことなく、いまできることに集中し、
むしろそれを楽しむくらいの気持ちで介護してきました。
それは憎んでいた病や、それにみまわれた妻に感謝する気持ちにさえ繋がりました。
なぜなら、おかげで人生とはなにか、いかに生きるべきか、死とはなにかなどたくさん学ぶことができたからです。

でも、いよ源然たる事実として彼女の死を迎えたとき泣いてしまう自分が想像できました。
しかしなぜ泣くのかと考えたとき、自分の喪失感、さみしさ、かわいそうという感情が原因であるなら、
それは、泣くのは自分のためということになります。
嘆き悲しむのは、安らかに生を閉じようとしている人に未練をおこさせる迷惑な行為なのではないか。
ただひたすら、安穏たらんことを、苦悩なからんことをと祈るのが正しい送り方ではないか。

との確信はあったのですが、でも泣いてしまいました。
それは息を引き取ったときではなく、次の日、遺体を納棺する特養所内での「おわかれ会」の時でした。
よく面倒をみてくれた方をはじめ何十人をいう所員がお棺に花を供え祈りをささげてくれました。
その光景を目にした時でした。
人が人に関心をもち慈悲の心をもってくれることのありがたさに感動して泣けたのでした。
まあちゃんの、決して他人を悪く言わないやさしい性格がみんなに伝わっているからこそ、
こんなにも多くのひとたちがお別れにきてくれたのでしょう。
悲しいという気持ちで泣くのではなく、うれしくて泣くのに近いといえるでしょう。

人生で一番長く寄り添ってくれたまあちゃんありがとう。